伊能忠敬

伊能忠敬の測量に協力した約1万2千人の子孫探し⑩

<伊能忠敬が行った全国測量の

協力者の子孫を探し出す取り組みが

始まったのをきっかけに、

岡山でも子孫を探し出し、

あわよくば未発見の史料まで発見して

取材・放送しようという

私のプロジェクト(業務)。>

 

 

 文化10年12月(1813年1~2月)に

伊能忠敬が津山市で測量した件について

調べている過程で、県立津山中学・高校が

忠敬の肖像画を所有していることが

わかりました。

 

 

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 忠敬の肖像画といえば千葉県香取市の

伊能忠敬記念館が所有するものが

有名ですが、と言うより、

それしか無いと思っていたのですが、

この岡山にあるのが不思議です。

問い合わせたところ、

現在は校長室に掲げているとのこと。

取材にお邪魔しました。

それがこちら。

 

 

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<所蔵 岡山県立津山中学・高校>

 

 地図を描いている忠敬の日本画です。

たて86cm、横72cm。

作者の名は「棚田暁山」。

この暁山についは

記録がほとんど残っていませんが、

わずかな文献から分かったことは、

 

●明治11(1878)年、津山市元魚町出身。没年不詳。

●上京して人物画を学ぶ。

●昭和19(1944)年、津山に疎開。

●昭和26(1951)年頃から消息不明。

●この絵は、昭和5(1930)年に岡山城で

 開かれた郷土出身画家の傑作展に

 出品されたもの。

 

 

 くらいです。

どういう理由で描いたのか、

なぜ津山中学・高校に所蔵されているのかは

分かりません。

ただ、額の裏を見せて頂くと、

明治41(1908)年4月30日に

岡山県の備品になったことが記されていました。

故郷の学校に寄贈したのかもしれません。

 

 暁山は30歳前後。

脂の乗った頃でしょうか。

彼が生まれた元魚町は、忠敬が宿泊した

玉置家があった堺町のすぐ近くです。

自分が生まれる65年前に忠敬が自宅周辺を

測量したことは当然伝え聞いていたでしょうし、

津山の地図を描く伊能を想像したこともあるでしょう。

そうした経験が創作意欲を

かき立てたのかもしれません。

 

 この作品にいかほどの資料的価値があるのか

気になったので、伊能忠敬記念館に問い合わせたところ、

 

 

「器具などは本来の使用法とはあまり関係なく

 無造作に配置されているように見受けられますので

 

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 (中略)関係のありそうなものを一つの画面に

 収めて描いた、イメージ図といったもの」

だそうです。

 

 

 そして、

「顔は角度など当館所蔵の肖像画と似ており、

 もしかしたら何らかの形で参考にしているのかも

 しれません。」 

 

というわけで見比べると、

 

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ブログ用①

<所蔵 伊能忠敬記念館>

 

 

参考にしたな、暁山。

 

 

伊能忠敬の測量に協力した約1万2千人の子孫探し⑨

 

<伊能忠敬が行った全国測量の

協力者の子孫を探し出す取り組みが

始まったのをきっかけに、

岡山でも子孫を探し出し、

あわよくば未発見の史料まで発見して

取材・放送しようという

私のプロジェクト(業務)。>

 

 

 取材でお邪魔した津山市郊外の

玉置さんのお宅には、

亡くなられた15代当主の奥様と

そのお嬢さん2人(16代目)、

さらにそのお子様達(17代目)数人。

 伊能忠敬の電子百科事典、

『イノペディア』のウェブサイトで

検索すると、江戸時代後期のご先祖様、

玉置源五兵衛(9代目)の名前が

出てきました。測量隊の宿泊先です。

 

 代々、津山城下で町人のまとめ役、

「大年寄」という役に就いていたことは

知っていたものの、

歴史の教科書にも登場する人物の偉業に

ご先祖様が関わっていたことを

初めて知ったという玉置さんご一家。

お仏壇には先祖代々のお位牌もあり(!)、

その一つが9代目源五兵衛のものでした。

 

 ご自宅での取材の後、

津山郷土博物館に寄贈された古文書を

ご家族に見て頂きました。

「大年寄」の職務日誌には

城下の日々の出来事が

細かく記載されています。

 

 博物館では1974(昭和49)年に

伊能忠敬関連の記述をまとめて

館報として発表していました。

幕府の業務で訪れる伊能測量隊の

受け入れは重要な任務だったようで、

到着の1年も前から測量隊の人数や

一行の経路などの情報が、随時、

藩を通じて寄せられていたようです。

 

 伊能忠敬は晴れた日の夜には星を観測し、

観測した場所には地図上に赤い☆印を、

日記にも観測した旨を記述していました。

津山でも観測(「此夜星測」)していて

玉置家が寄贈した職務日記の

同じ日のページには観測の様子を

「こっそり拝見した」と書かれていました。

符合しています。

 

 

ブログ用③

 

 

<右> 伊能忠敬の測量日記

    (画像提供 伊能忠敬研究会)

<左> 玉置家寄贈の「月番日記」

    (津山郷土博物館蔵)

 

 玉置家の皆さんはインタビューに

「歴史上の人物と関係があったのは驚き」、

「これを機に、子孫の自分も

 しっかりしないと・・・」と

感想を述べられました。

 

 普段、生活の中で家族や地域、

国の歴史に思いを巡らせる機会は

少ないと思いますが、

歴史を振り返り、歴史から学ぶことが

現代を生きる上でのヒントになったり

心構えを形成したりするのだと思います。

そんなことを改めて感じた

玉置さんご一家の取材でした。

 

 

続く。

 

 

 

 

<伊能忠敬の電子百科事典

 『イノペディア』のサイトはこちら>

 

http://www.inopedia.tokyo/

 

 

 

伊能忠敬の測量に協力した約1万2千人の子孫探し⑧

 

 

<伊能忠敬が行った全国測量の

協力者の子孫を探し出す取り組みが

始まったのをきっかけに、

岡山でも子孫を探し出し、

あわよくば未発見の史料まで発見して

取材・放送しようという

私のプロジェクト(業務)。>

 

 

 

 伊能忠敬の測量日記によると、

現在の津山市中心部にある

「玉置源五兵衛」の家に1815年1月24、

25日と2月5日に宿泊していました。

そして、その玉置家に伝わる古文書が

津山郷土博物館に寄贈されていることが

分かりました。玉置家は代々、

城下町の町人のまとめ役を務めていて、

日々の出来事を日誌に残していたのです。

 

 古文書を寄贈された先代のご当主は

お亡くなりになっていましたが、

奥様と次女ご夫婦、お孫さんが

郊外にお住まいとのことでした。

ご自宅にお電話すると、

長い呼び出し音の後に奥様が

出られました。

 

 

 奥様は最初、驚かれたことでしょう。

「テレビ局」からの突然の電話で

「お宅のご先祖様が・・・・」などと。

私が先方なら特殊詐欺を警戒します。

(イノウイノウ詐欺???)

 

 

 最初は奥様も怪しむような反応でした。

電話口の向こうの「気配」でわかります。

でもその反応には慣れています。

私は丁寧に、ゆっくりと、

もうこれまでに何十回と繰り返した

プロジェクトの趣旨を説明しました。

 

 

 奥様は、亡くなったご主人が古文書を

博物館に寄贈したことはご存じでしたが

かつて住んでいた家に伊能が宿泊したこと

ご存じではなく、驚いたご様子でした。

さらに丁寧に取材をお願いしたところ、

取材に応じて頂けることになりました!

 

 奥様はおっしゃいました。

「取材は、大阪から長女と孫達が

 帰って来られる日でも良いですか?」

 

その反応にも慣れています。

 

 取材当日。ご自宅にお邪魔すると

「源五兵衛」の「孫の孫の孫の孫」達が

とてもとても元気で賑やかでした・・・。

 

 

 

続く。

 

 

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 『イノペディア』のサイトはこちら>

 

http://www.inopedia.tokyo/

 

 

 

 

伊能忠敬の測量に協力した約1万2千人の子孫探し⑦

 

 3月12日(土)。

フジテレビのニューススタジオで

伊藤敏尋アナウンサーと

『みんなのニュース』のCMを

撮影させて頂けることになりました。

 

 希望するフジ系列局が10社ほどあり

短時間で順番に撮影していったため、

スタジオ内滞在時間は待ち時間含め

10分程というスピード業務です。

 

4.26みんなのニュース(3ショット

 

 

 これで岡山に戻るのではあまりにも

もったいないと思ったので、私はデジカメと

簡易三脚を持って行きました。

伊能忠敬研究会のメンバーで

忠敬の電子版百科事典『イノペディア』を

中心的に作っておられる戸村茂昭さんの

インタビューを撮影するためです。

 

 戸村さんのご自宅は東京駅から

約1時間半、千葉県山武市の郊外にあり

到着したのは夕方5時を過ぎていましたが、

快く取材に応じて下さいました。

 

 研究会の歩みや

『イノペディア』制作の経緯、

忠敬の足跡など興味深く伺いましたが、

最も印象的だったのは

「岡山など西日本の測量は

幕府の直轄事業になってから

行われているので関係者も多く、

その子孫も多いはず。

従って残っている史料も多いはず」という

ご指摘でした。

子孫・新史料探しの励みになります。

 

 せっかく上京したので1泊し、

せっかくデジカメと三脚を持参したので、

翌日は東京・江東区の門前仲町にある

富岡八幡宮で忠敬の銅像を撮影しました。

測量の旅に出発する際には必ず立ち寄って

安全を祈願したというゆかりの地です。

この銅像は特集の映像を作る時に

大変役立ちました。

 

 

 せっかくなので当地の名物、

大きなアサリをたっぷり食べて帰りました。

 

 

続く。

 

 

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伊能忠敬の測量に協力した約1万2千人の子孫探し⑥

 

 取材の過程で新史料が発見されれば

ベストですが、その可能性は

あまり大きくないため、

せめて測量協力者のご子孫に

データベースの中に活字として掲載された

ご先祖様の名前を確認してもらうことを

目的としました。

 

 祖先が伊能忠敬の日本地図作成という

偉業にゆかりがあったことを知るだけでも

「へぇ〜。」だと思いますし、

その地域の視聴者にとっても

「ほぉ~。」だと思います。

 

 

 データベースに記された地名と氏名、屋号、

および前述の名家の家系図が掲載されている

歴史愛好家のウェブサイトや電話帳を頼りに

協力者の子孫と思われる家を探し歩きました。

 県内各市町村の教育委員会や歴史研究者、

愛好家の皆さんを始め、面談や電話での照会に

大変多くの方のご協力を頂きました。

順不同でざっと列記しますと・・・、

 

岡山市立西大寺公民館職員の方
西大寺の歴史愛好グループの方、
矢掛町教育委員会の方、
岡山市立足守公民館の方、
足守の歴史愛好家の方、
岡山県立博物館の内池英樹さん、
津山郷土博物館の梶村明慶さん、
玉野市教育委員会の方、
玉野市山田市民センターの方、
玉野の歴史愛好家の方、
瀬戸内市教育委員会の方、
備前市歴史民俗資料館の方、
倉敷市教育委員会の方、
新見市教育委員会の方、
岡山市東区藤井地区の住民の方、
岡山市東区九蟠地区の住民の方、
岡山市立山南公民館の方、
岡山市東区水門町の住民の方、
西大寺文化資料館前館長の中村さん
・・・・・・・。

 

 なかでも岡山県立博物館学芸員の

内池英樹さんからは、ローカルテレビ局が

地元の歴史を取り上げることの

意義深さについてご教示頂くとともに、

大変温かい励ましの言葉を頂きました。

ありがとうございました!

 ちなみに「住民の方」と表記したのは、

「すみません、この辺りに●●さんという

 お宅はありますか?」と通りすがりに

尋ねた数人を含みます。

 

 3月の空いた時間はほぼこの作業に没頭し、

幾人かのご子孫に辿り着くことも出来ました。

(後述)

 

そんな中、思わぬチャンスが訪れました。

 

最近めったになかった「東京出張」です!

 

 

続く。

 

 

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伊能忠敬の測量に協力した約1万2000人の子孫探し⑤

 

 岡山県内の主な名家の家系図が

掲載されているそのサイトで

伊能忠敬測量日記に出てくる

宿泊地と宿を提供した人の名前、

宿泊年月日照らし合わせてみると、

「あ、この人だろうな!」と

一致しそうな人が何人かいました。

その家のご子孫なら、ひょっとすると

未発見の貴重な史料をお持ちかも。

それが発見できれば、郷土の歴史の

解明につながるニュースになります・・・。

 

あ、

 

そうだ、

 

 

ニュースだ!

 

 

 一歴史ファンの趣味の域ではなく

次に私がディレクターを担当する

ニュース特集のテーマにしよう!

新史料の発見につながるような内容の。

そこまで至らなくても、

伊能忠敬と岡山のゆかりを紹介し、

多くの視聴者が「へぇ〜」と

感じてくれるような内容の。

 

 

 

 そう決めたら、堂々と日中に

リサーチができるようになりました。

 

 

 

業務として。

 

 

続く。

 

 

 

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伊能忠敬の測量に協力した約1万2000人の子孫探し④

 

 黒田さんいわく、表町界隈には

かつての長船町福岡地区(現在の

瀬戸内市)から移住してきた人が多く、

故地の名を屋号とし「福岡屋」を

名乗る家が多かったとのこと。

 

 ちなみに歴史ファンの方なら

よくご存知でしょうが、

備前国福岡は豊臣秀吉の軍師、

黒田官兵衛の父祖伝来の地であり、

江戸時代に黒田藩が領地とした

「福岡県」の由来となった場所です。

呉服屋の黒田さんも

「我家も官兵衛一族の末裔です」と

おっしゃっていました。

 

 

屋号・・・・・、

 

屋号なんだよなぁ。

 

 伊能忠敬の測量日記に出てくる協力者は

「名前だけが記されている人」と

「屋号+名前の人」、そして、

「苗字+名前の人」が登場します。

苗字帯刀が許された身分の家でしょう。

苗字が分かれば子孫を探しやすいのですが、

屋号だと、現在では土地の古老でも

知らないケースが多そうです・・・・・。

 

 

 測量日記に出てくる地名や人名、屋号を

インターネットでいろいろ調べていたら、

詳細は明かせませんが

すごいサイトを発見しました!

おそらく岡山県内在住の歴史愛好家で

県内の主な名家(庄屋級)の墓を調査し、

家系図を作られている方のサイトです。

どのように調べられたのか、

それぞれの家の歴史まで

わりと細かく記述されています!

家によっては屋号まで・・・!

 

 このサイトとの出会いが

子孫探しの大きな助けとなりました。

 

 

続く。

 

 

追記:

「黒田官兵衛」を演じた俳優・・・と言えば、

最近ではV6の岡田准一さんですが、

同じドラマシリーズで竹中直人さんが主演した

『秀吉』では、伊武雅刀さんが

官兵衛役だったことを思い出しました♪

というわけで、今回のカテゴリーは

「伊能忠敬」と、

2回目の「伊武雅刀さん」。

 

 

<伊能忠敬の電子百科事典

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伊能忠敬の測量に協力した約1万2000人の子孫探し③

 

 文化2年11月15日(1806年1月4日)、

伊能忠敬が宿泊した備前国一番村

(現在の岡山市中区江並)の

「安太夫」は苗字が記されていないため、

どこの家かを調べるのは困難です。

 

 ただ、きちんと苗字や屋号が

記されている家もありました。

なかでも1806年1月20日から3月6日まで

1か月半も滞在したという「岡山城下の

脇本陣福岡屋吉郎兵衛」などは

簡単に判明しそうです! 由緒正しそう。

 

 「脇本陣」とは大名行列などが

宿泊した「本陣」の予備的な施設のこと。

旅館のようなものでしょうか。

調べてみると、現在の北区表町の

商店街アーケードの中にあったようです。

表町の「福岡屋」なら・・・・・、

 

 

 表町の呉服店「福岡屋」さんを訪ねました。

旅館ではなく呉服店であるという現実と

ウェブサイトの「大正13年創業」の

文字には目を閉じて・・・。

伊能忠敬に関する未発見の史料を

お持ちかもしれないという期待に

胸を膨らませながら・・・。

「大正13年に旅館から呉服屋さんに

業態転換したに違いない」と

言い聞かせながら・・・。

 

 

 

 店主の黒田浩一さんは以前、ニュース取材や

情報番組への出演でお世話になったことがあります。

熱が入り過ぎてたどたどしくなった私の説明に

興味深く耳を傾けて下さいましたが、

「うちのことではありませんねえ・・・」と

申し訳なさそうに、私の思い込み

(大正時代の業態転換)を否定されました。

本当に残念申し訳なさそうに。

突然訪ねて申し訳ないのはこちらなのですが。

 

 

続く。

 

 

 <伊能忠敬の電子百科事典

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伊能忠敬の測量に協力した約1万2000人の子孫探し②

 

 

 2月半ば。

伊能忠敬研究会がデータベースを

公開したという新聞記事を見つけると、

私はすぐさまデータベースの検索システムで

岡山県内での伊能の足跡について

調べてみました。

 

 すると、私の故郷周辺での

かなり詳細な記録が!

 

<第5次測量>

1806年1月2日 南幸田村 磯屋太平

    3日 西大寺村 坂口屋松左衛門

    4日 一番村 安太夫

    5日 米倉村 和右衛門

    6日 早島沖新田 庄屋片山貞蔵

    ・・・・・

 

 第5次測量では、

1805年の12月22日に日生村に入り、

2か月近くの岡山城下(現在の岡山市北区

表町2丁目)滞在を経て

翌年の3月16日に笠岡村を出ていました。

そのうちの岡山市南部(現在)部分です。

 

 この中の「一番村」こそ

今ではその名を留めていませんが、

現在の岡山市中区江並。

私の実家のある地域です。

 

 210年と1か月程前、伊能忠敬は

私の実家周辺を測量していました。

当時、「一番村」に住んでいたはずの

私のご先祖様はその様子を

さぞかし物珍しげな様子で

見学したものと想像されます。

 

 伊能記録のデータベースによると、

その日は現在の東区九蟠(くばん)の

「射越屋紋八」さんの家で昼ご飯を食べ、

家や食器の見た目を褒めた後、

児島湾岸を西に向かって測量し、

その夜は「安太夫」さんの家に泊まり、

地図の精度を高めるための

天体観測を行っていたことまでわかりました。

 

 

 

・・・で、実家の近くにいた「安太夫」って

どこの家だ?

 

伊能忠敬の測量に協力した約1万2000人の子孫探し

ブログ用①

  【写真 千葉県香取市伊能忠敬記念館所蔵】

 

 江戸時代後期に精密な日本地図を作った伊能忠敬。

商人として成功を収めた後、

50歳で江戸に出て暦や天文学を学び、

55歳から17年かけて全国を測量しました。

平均寿命の短かった時代に

なんという「パワフルシニア」でしょうか。

 

 伊能忠敬は測量にあたり、

日付や天候、宿泊した家や出迎えた人、

時には昼ご飯を食べた家の名前まで

つぶさに記録していました。

その人数はなんと1万2000人分!

 

 今年2月、「伊能忠敬研究会」が

その1万2000人のデータベースを

完成させたと発表しました。

インターネットで誰でも簡単に

伊能忠敬の行程や宿泊場所、

測量協力者の名前などを検索できます。

 

 この検索システムを使って協力者の子孫や

各地に伝わる未発見の史料などを探し出し、

伊能忠敬のインターネット版百科事典、

「イノペディア」を充実させるのが狙いです。

また再来年2018年は忠敬の没後200年にあたり、

多くの子孫とともにその偉業を顕彰する動きも

進んでいます・・・・・。

 

 

 

 歴史好きの私はこの取り組みの虜になりました。

そして、ほぼこの1か月というもの

このブログの更新も滞るほど

岡山での子孫リサーチやら

新史料発見の妄想に時間を費やしてきました。

ただ、「単なる趣味」のために時間を費やすよりは

少しでも何か業務に生かせないかと思い、

取材して放送することにしてみました。

 

 

 で、第1弾が今夜です。 急ですが。

「みんなのニュース」の午後6時14分からの

岡山香川放送枠の特集コーナーです。

どうぞご覧下さい。

 

 

 この取材にまつわるエピソードを

「伊能忠敬」という新カテゴリーを設け、

随時綴ることにしましたので、

今年度も引き続き、ブログをお読み頂ければ

嬉しいです。

あ、最初に作った「伊武雅刀さん」について

あまり投稿していませんね。

こちらも何か新情報があれば更新します。